魔女旅に出る

私の中の四歳は死んでいない。


阿蘇は母方の祖父の故郷で、ものごころついた時から一年に一度は行っているような気がします。


↑これは上色見熊野座神社。


目の覚めるような若草色が風に波打つさまを見ていると「帰ってきたなぁ。」と何故かこの世に産まれた時の気持ちってこんなだろうか、と思いました。
末端まで艶々として生命がみなぎっている、阿蘇の自然は非現実的な美しさがあります。

阿蘇大橋が陥落したので大津からミルクロードへまわり、ところどころ修繕中の道や建物があるねと家族と小話をしながら進んでいたら、車のメーターは振り切れそうなくらいぐんぐん上昇して、世にも美しく懐かしい色彩が目に飛び込んできました。
六月の白んだ空でしたが、島崎藤村の椰子の実さながらの気持ちで今を生きている自分には胸に来るものがありました。



名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

歳をとった今思うのは、望郷とは、亡くなった大切な人、年をとって弱ってしまった大切な人、そういう人が元気に暮らしていたあの頃、あの場所ーもう絶対に戻れないあの時、あの場所を思う気持ちだということ。


それはすなわち私が幼い頃の思い出であり、娘にとっての今だということ。


可愛がられた記憶が多いほどに、時の流れはやるせなく虚しい。


家族が亡くなるのは辛い。

そして、亡くなった人といちばん近しい人が傷ついている姿を見るのも辛い。


草千里ヶ浜の緑は、自分が今何歳でどのような人間なのか分からなくさせます。




私の好きな佐野洋子さんの本に、こんな言葉が載っています。

「四十だろうが五十だろうが、人は決して惑わないなどという事はないという事に気がつくと、私は仰天するのだった。なんだ九歳と同じじゃないか。人間は少しも利口になどならないのだ。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だかに関知していない」
ー神も仏もありませぬー


波のように揺れ動く草千里ヶ浜の緑に浸りながら、そのような事を思いました。